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文科系アウトドア派のんびり遊楽人

寡黙な虹鱒

第1章 黄色い光

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 ぼくが瞼の裏に肌色を通過した黄色い光を感じて生きていることを実感したとき、頭の中に何か秘められているような鈍い刺激に導かれて、はっと瞬間的に瞼が開いた。ベットに降り注ぐ光は窓にかけられた2層のカーテンに遮られていたがそれでも太陽がいくつかに連ねる建物の上に位置することは意識が戻ったばかりのぼくでも理解できた。



 何か変だ、というぼくの声が聞こえ、ベットの上の自分と横にいるパートナーとふっくらと重さを感じさせない羽毛布団と生温かい空気を支えている合板のフロアとホワイトの壁紙の部屋とカーテンレールからぶら下がってる細かいダイアモンドカットのサンキャッチャーと刺繍模様の白いカーテンと樹木の葉が描いている厚めのカーテンとカーテン越しに伝わる黄色い光の何に違和感があるのかを頭の中がスキャンし始めた。脳内のデータの読み返しが瞬時に光の部分で停止し、今なぜ明るいのだろう、とぼくは横たわっているぼくに呼びかけた。



 光、ひかり、朝日、明るい、もう朝、今日は休み?そうお休み、ベットの上、何か、何か、何かが、あ、ぁ、ぁ、本、クジラ、村上、遅くまで、クジラ、何が違う、やくそく?誰との約束?何、朝、朝、早朝、早い、早く、早く起きる、起きる、なぜ、とけい、時間、頭の上、光、カーテン、朝日、ケータイ、ケータイ、ケーエタイ、ケイタイ、携帯、ぼくの脳天から胸のあたりまで言葉が巡りまだ起動してない身体に事前の信号を送り続けている。



 携帯、という言葉が赤い光沢が少しはげかかった長方形の物体として浮かんだとき、ぼくは息を止めてカーテン越しの光を感じながら右手を仰向けのままで右上にのばしベッドの上の携帯を疑い深く探した、人差し指と親指にふれた携帯をつかみ、左手で持ちかえ、右手で祈る気持ちと諦めの気持ちがまだ寝起きの緩やかな状態の中でゆっくりと開いた。



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 06:51と液晶の数字を当たり前に表示し、数字はぼくが感じている黄色い光とはぴたりと調和してぼくに虚無のときから実存のときへと確かに変わっていることを遠慮なく認識させた。ときを感じるのは自然の光と周囲の人々や物体や環境の動きとぼくの体内時計と時計だ。携帯の数字がぼくの瞳と網膜を通じ頭の中に大事にしまいこまれた最新の数字と関連性の照合を始め、05:45という数字をぼくの目覚め始めた脳の画面に導きだした。06:51と05:45の違い、黄色い光から呼び起されたぼくは、それがぼくが昨晩携帯にアラームをセットした時刻だということをとても思い出すのがいやだったけど確認した。



 それはぼくが昨夜携帯をセットしたとき、マナーモードを解除していなかったことを示すことになる。05:45、07:45、09:00、10:00、11:00、今日、ぼくが行動するはずの時刻を楽しみながらセットして、最後に#を長押ししなかったことになる。押した?確かにぼくの記憶の中にも左手の親指にもそのアリバイはない。大事なことを成し遂げながら最後のあと一歩で公表できないような、でもそれが他人に責任を転嫁できないときの自分に対する制裁をしなければならないような、でもそれぐらいいいんじゃないかと昨夜定めた使命をはぐらかすような2つの気持ちとその二つを溶かしこみそれが問題ではないように転嫁するような気持ちが胸の上の鎖骨の奥あたりに生まれ、ぼくは何のために時刻をセットしたかに思考を移動させた。



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 「歌うクジラ」という村上龍の最新の長編を読んでいた。それはおととい買い物に行ったときにのぞいたヴィレッジ・ヴァンガードに村上春樹のコーナーの隣に並んでいた2冊のハードカバーだった。講談社から発行された上下2巻の長作で村上龍の大ファンでありながらぼくはこの本の発行を知らなかった。上巻は水の泡のようなもののモノクロ写真の厚表紙の上に、ビニールで作られていてホワイトの中にちょうど真ん中あたりがクジラの形だけ透明になっていて厚表紙の黒い泡が見えるようになっている。表題の歌うクジラと村上龍は細い水色のサインペンでデザイン的に書かれていて、帯には「21世紀の「オイディップス王」「神曲」「夜の果てへの旅」を書きたかった。村上龍」、そして大きく「それは、絶望か、希望か」と書かれている。

 オイディップス王は欧米の洋書に良く出てくるし、大ファンの筒井康隆氏もよく使っているので何とか知っている。ダンテの「神曲」は今も左横の書棚に分厚い文庫本が3冊ありたまに読み返している。ぼくの持っている神曲は平川氏の訳書で河出文庫から発行されている比較的分かりやすいとされている訳本だ。神曲は永井豪氏の漫画、デビルマンとかバイオレンスジャックを読んだときデビルマンの前に魔王ダンテという漫画があって、その漫画を描くことになったのは永井豪氏が子どものころから読んだり見たりしたダンテの神曲がベースになっているということを知り興味を持ったからだ。ただある程度キリスト教やギリシャ神話、ローマ神話などの西洋の宗教観や歴史を知らないと読み進めることができない難書だった。ぼくは興味が持続しやすい地獄篇のほか2冊はざっと流し読みしにて主に訳注や解説を読んでいた。「夜の果てへの旅」は題名も知らないのでウエブで調べることにしよう。



 「歌うクジラ」の下巻は上巻とカバーの色が逆で水色のバックにホワイトの文字になっていて、中央はクジラの形が透明になっている。良く見ると上巻がクジラの上半身、下巻がクジラをそう呼ぶか分からないが下半身の形が透明になっていて上下巻を合わせると1尾のザトウクジラに見える。



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 歌うクジラ、そう歌うクジラを手に入れてからぼくは空き時間の有る限りこの本に没頭していた。歌うクジラは村上龍氏の作品でいうと「五分後の世界」「ヒュウガウイルス」「半島を出でよ」のような戦闘モノのような細かい描写と改行と句読点が極端に少ない文章が延々と時間をつなぐように続いている。今ぼくが打っているこの文章の形態と流れを全然受け付けないあなたはこの作品は苦痛かもしれない。苦痛に感じる人はすでにここまで来るまでに読むのをやめているだろう。歌うクジラはぼくにいつも村上龍氏の本を読んだ後に感じる刺激を与えてくれ、無数の言葉やキーワードや考え方や生き方をぼくのデータとして書きこもうとする。その結果本来は無限に近いはずのぼくの脳のデータベースは一時的にパンクしそうになり読むのを中断しようと意識するがそれをさせまいとする文章の力が村上龍氏にはあり熱中して読んでしまうのだ。そう、昨夜も遅くまで歌うクジラを読んでいて早朝に起きなければならないから文字の刺激から受ける脳の興奮を治めるために本を閉じ、赤いソフトバンクの携帯のアラームをセットしたのだった。

 

 今回はここでおしまいじゃ。

 オレは本を読むとすぐに影響を受ける傾向がある。

 あなたは分かると思うけど、今日の日記は村上龍の歌うクジラの文体を真似しているのじゃ。もちろん文章は稚拙で内容もなにもないのだけど、こういう「雰囲気」で物語は進んでいくのじゃ。

 ちなみに今日の日記が「ぼく」になっているのは歌うクジラの主人公タナカアキラが「ぼく」と言ってるからで、いつもの「オレ」は村上龍氏の「おれ」と筒井康隆氏の「オレ」から来てるのじゃ。

 

 刺激をインプットされるとアウトプットしないとパンクするTackeyでした。


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